こまりさんの、はらぺこ手帖

なんでもないようなことが、しあわせなんだとおもう。

バベル

バベルの塔、というとまず思い出すのは
子供の頃繰り返し読んだ「絵で見る旧約聖書」の
カオス極まりないイラストなんですけども。
旧約の挿し絵ってなんであんなに脅しが効いてるんでしょう。
怖いんだよねーいちいち。
宮殿の柱を押し倒す盲目のサムソンとか、
トラウマオンパレードですから(笑)。


先週、ゴールデンウイークの最後に
映画『バベル』を見に行きました。


バベルの塔の話というのは、
大昔、人間たちが自らの存在を過信して
神に近づこう、神を越えようと
天まで届くほどの高い塔を作ろうとしたために
神の怒りのいかづちが落ち、
とたんに彼らはそれぞれ別々の言葉を話しはじめて
お互いを理解できなくなった。
わたしたちがいろいろな言語や国にわかたれているのは
自らが招いた神の罰なのである、
というような話なのですが。


この映画の登場人物たちは、それぞれの混乱を通して
「わかりあえないことの悲劇」を痛々しい形で表現しています。
ただ、言葉というのは、現代ではひとつのたとえなのよね。
わかりあえないのは言葉だけのせいじゃない。
逆に考えれば、言葉以外にもわかりあう方法はある。
だからこの映画のキャッチコピーは


「まだ、世界は変えられる」


なんじゃないかな。


モロッコの荒れた岩地と、
国境をはさんだアメリカ大陸西海岸のふたつの国、
東の果てにある東京の喧騒。
このとてつもなく離れた場所で、
兄弟が、友達が、親子が、
お互いの気持ちをわかりあえずに
傷つけあいながら毎日をやり過ごしています。
それが、一発の銃弾によって劇的に形を変える。
よいことと悪いことは不公平に入り組んでいて
簡単に納得できるものではないんだけどね。


撃たれて瀕死の妻ケイトを抱えて狼狽する夫ブラピを
手放しで気遣ってくれたのは、
同じバスで旅していたアメリカの観光客ではなく
モロッコの孤立した村からきたガイドの青年でした。
病院も救急車もなかなか手配がつかず、
観光バスはやむなく彼の村に立ち寄ります。
村人たちは、巨大バスからわいて出た白い外人たちに
かなり引きぎみですが、
それでもなかには愛想のよさとは違う
さりげない優しさをみせる者もいます。


ようやく大使館のヘリが大仰に現れ、あわただしく村を去っていくとき、
ブラピは財布からありったけのお札を抜き出して
青年に渡そうとしますが、
彼はそれを思いっきり押し戻して


「そんなのいらないから、早く奥さんを病院へ」


その瞬間、大きく心が動いたブラピのアップは、
彼のキャリアで屈指の表情ではなかったですかね。


私がもしこの観光バスに乗っていたら、
おそらく「アメリカ人の観光客」と同じように
怪我をした同胞より自分の無事のため、一刻も早く
この場を脱出しようとしてしまうと思います。
すこしでも「ガイドの青年」に近づくためには
どんなトレーニングをすればいいのだろうか。