こまりさんの、はらぺこ手帖。

なんでもないようなことが、しあわせなんだとおもう。

公開前夜

「ファティマの大予言」=20世紀のはじめ、ポルトガルのファティマにある丘にマリア様が現れ、子供たちに3つの予言を託したという、クリスチャンにとっては奇跡的な、クリスチャン以外にとってはオカルティックな出来事がありまして、わたしが中学生のころそれが妙にテレビでとりざたされて、ノストラダムス流行との相乗効果で視聴者の恐怖心をあおっていました。現れてよきことが起こるならともかく、その予言のうち3つめをきいたローマ教皇がショックのあまり卒倒した、っていうんですから。パニクった友人たちとわたしは、連名でシスターにお手紙を書きました。「パパ様はどうしてお倒れになったのですか。シスターはその3つめの予言を知っていますか。よくないことが起きるといわれていますが、だいじょうぶですよね」。わたしたちとしては当然「だいじょうぶですよ、なにも心配することはありません」というお返事を期待していたわけです。ところが、数日後にシスターがくださったのは便箋数枚にびっしり書かれた長い英文で、最後は「わたしたちにできるのは祈ることだけです。さあ祈りましょう」的に締めくくられていました。

それこそ卒倒するかと思いました。

えええ〜シスタ〜(笑)。恐怖倍増じゃないすか。今思えば、シスターもひとりで考えているのが怖くて、誰かに話したかったのかもしれません。

ヴァチカンが秘密にし続けた3つめの予言。
おびえた中学生たちはそれからずっと「世界の滅亡」を想像してびびっていました。その後、たしか「予言は教皇暗殺未遂のことでした」と発表されたことがあったように記憶していますが、ほんとにそれだったのかなあ…なんて思ったりするんですよね。1つめと2つめが世界規模の危機で、3つめがキリスト教内の危機。なんだかバランスが悪い。それに、未来に起こる「暗殺未遂」を聞いて、現役のパパ様が卒倒までするでしょうか。ほんとはもっとすごいやつだったんじゃないのかな。たとえば「ローマを中心とする教会制の崩壊」とか「世界宗教の誕生」だとか。もっとこわいことも、いくらでも想像できるけれども。

宗教で大切なのは創始者の説いた教義であって、その教義っていうのは神の存在を理解しやすくしてくれる手引きみたいなものなんですよね。だからある程度のルールはどうしても必要になってくるわけだけど、そのうえに更に、誰か特定の人たちが得をするように勝手に乗っけていったしきたりだのタブーだのっていうのはなんの意味ももっていません。そういう意味で、歴史的な意味でのキリスト教はもうツッコミどころ満載。ただ、じゃなんでそんな矛盾だらけのものが、得をするしないに関わらず大勢の人々に2000年も「愛されて」きたのか、というところなんです。乗っかってる余計なものを全部とっぱらってしまえたらいいのに。そのための新説、奇説、非常にエキサイティングだと思います。

ダ・ヴィンチ・コード」公開前夜。またああだこうだと考えられるなあと思うと、楽しみでしょうがない。
あと、宣伝ポスターで、暗黒面に落ちたてのアナキンみたいになってるポール・ベタニーも楽しみでしょうがないです。