こまりさんの、はらぺこ手帖

なんでもないようなことが、しあわせなんだとおもう。

言葉・言葉・言葉

野田地図『贋作・罪と罰』はドストエフスキーの『罪と罰』をふまえて描かれたお芝居ですが、私はうっかりこれを、さらに謝珠栄さんが脚色したミュージカル版『天翔ける風に』のほうを先に観てしまいました。こうしてみると、ああいう絵をこういう絵に描き直した謝先生の筆力ってのもすごいなとあらためて感心したんだけれども、できるならこれ、逆の順番で観たかったな。と思った、本日のシアターコクーン。
野田さんの芝居が「わかりづらい」ということは、アンチだけでなくファンも認めるところです。ただ、外国語と同じように、わからない単語とか文法とか、そういう細部に拘っている限り、まったく全体がみえてこない。むしろ、わからなくてもしょうがないと思って言葉遊びに笑いながら気持ちを泳がせていると、突然前方から野太い腕が伸びてきて心臓をぐわっとわし掴みにされる瞬間があります。そこなんです、野田芝居のキモは。今回のそれは、才谷(古田新太)に<告白>する三条英(松たか子)の長い長い絶叫台詞でした。松さんの声って、あれはいったいなんなんだろうねえ。発している言葉の意味を越えて本能に訴えかけてくるところがあって、それはどんな抽象的な台詞を言っているときもわかりやすい愛の歌を歌っているときも、まったく変わらないのです。
強い言葉というと、古田さんの「信念のために血が流れるより金が流れたほうがましだ」という台詞にはドキっとしますし、それから段田安則さんが言う「龍馬が殺されることはここにいる誰もが知っている、要はどうやって殺されるかなんだ」という意味あいの台詞、これもとんでもない。英が獄中からの手紙の「あなたは今ごろ中岡さんと…」が読み上げられる時点で、「ああもう!」というか、起きてしまったことにはどうやっても手を加えられない無力感みたいなのもに勝手に打ちひしがれてしまいました。
野田さんの芝居が好きなのは、といっても最近の作品しか知らずに語るのもおこがましいのですが、彼は、なにかを批判するとしても決して高みから見下ろして描くことをしないからです。見下すことの「みっともなさ」を知っているから、どうしてもというなら見下されるほうを選びますよ、そういう印象を受けます。どんなジャンルでも、やっぱり人は、なにかを馬鹿にするようになった時点で駄目なんだよね。芝居だけじゃなくて、最近起きる事件だってみんなそうだもの。